ブタペストで花開いた友情。今も人生の宝です。

◎沢木啓祐

 私が最初にユニバーシアード大会を知ることになったのは、1962年(昭和36 年)高校3年の時ジュニアの一員としてヨーロッパで転戦を行った時でした。 たまたまソフィアのユニバーシアードに出場する日本選手たちといっしょのス ケジュールだったのです。その後1965年(昭和40年)になってからハンガリー のプタベスト大会に初めて出場しました。この大会では、5,000mで日本新を出 して優勝したわけですが、そのときはドイツのルーツ・フィリップという選手 と最後の最後まで競り合い、ゴール寸前の100mで雌雄を決して私が優勝しまし た。

 ルーツ選手は1964年(昭和39年)の東京オリンピックに出場した選手で、 当時日本国内を転戦してまして、私は2度彼と走りました。そのとき常に彼は 私のうしろをついてくるのです。そしてラストですっと前に出て、2度ともそ れで私が負けました。私は「オリンピックに出たような選手が、どうして我々 についてくるんだ」と彼にクレームをつけたことがあるんです。

 1965年の8月にハンガリーのブタベスト大会で、今度は逆に私が彼のうしろ につきゴール前で抜きました。さて、そのルーツ選手とはそれから長いつきあ いが始まりました。1968年のメキシコオリンピックにもお互いにでたし、その 翌年から私がドイツに留学したときも一番のサポートをしてくれたのが彼でし た。どこへ行っても私の姿を見ると率先していろいろとアドバイスしてくれ、 エスコートをしてくれるのです。話はもどりますが、1967年にユニバーシアー ド東京大会がありました。当時私はメキシコオリンピックを前にしており、特 にユニバーシアードを年間スケジュールとしては、とらえていませんでしたが、 日本で初めてのユニバーシアードということでどうしても勝たねばならない。 そこで急拠スケジュールを変更したりして、とても調子が悪かったのですね。 10,000mが初日に行われました。私は6,000mぐらいでアメリカのネルソンとい うトップの選手から大きく離れ、もうダメかなと思った時、私の前に出てどん どんとペースをあげて引っ張ってくれたのが彼、ルーツ選手だったのです。

 そして8,000mを過ぎたところで私たちはトップに追いつきました。ところが 彼は力尽きて脱落していき、私はアメリカの選手とラストスパートで勝つこと ができました。彼は結果的には、3位になってしまいました。あとで彼は「助 けようと思ってやったんではないんだよ」と言ってくれましたけども、彼は自 分の身を捨てて私をリードしてくれた。最初は最大のライバルであったルーツ・ フィリップ選手は、私にとって一番心に残っている友になったのです。その後、 私はコーチとしても3つのユニバーシアードをはじめ、数々の国際試合を経験 しましたが、そこでもさまざまな友を得ました。世界中に友だちができたこと は本当に幸せなことだし、いまでも私の人生をゆたかにしてくれています。

 1995年に福岡市でユニバーシアード大会が開かれるわけですが、このユニバー シアードというのはあらゆる国際試合の登竜門なのですね。シェフィールド大 会のマラソンで優勝した韓国の黄選手が、パルセロナオリンピックでも優勝し たのがいい例だと思います。だから福岡でもすばらしい記録とかけがえのない 友情がたくさん生まれることを来たいしています。国際的なスポーツ競技会と いうものは本来、国家ではなく都市でやるものです。福岡はその歴史的なアイ デンティティを再認識して、福岡らしい大会を実現してほしいものですね。街 では外国の選手たちにも「こんにちは」とぜひ気軽に声をかけてください。そ こから、コミュニケーションは大きくひろがることと思います。


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