スポーツをしている人には、どんな言葉も追いつかない。

村上龍

楽しんでこそ、スポーツだ

 好きなスポーツは、競争のあるもの。つまり、勝ち負けがハッキリわかるスポーツです。どちらかというと派手なスポーツが好きで、地味なスポーツはあまり見ません。よく見たスポーツといえばテニスとF1、 それにアメリカンフットポール、サッカーのワールドカップですね。

 九州人で海が好きだから、スキューバダイビングもやりますが、やはりテニスは7〜8年間みっちりやったから一番好きだし、自信があります。

 日本のテニスを見ているとどうも”楽しむ”ということが欠けているように思えますね。マッケンローやレンドルは、もう楽しくてしようがないという感じでやってる。テンション民族といわれる日本人の性格は、ずいぶんテニスにはマイナスになっているんじゃないかな。

 要するに、心底スポーツを楽しめる人が日本には少ないんですよね。どうしても”道”とか、ときには”接待”とかになってしまう。もっと明るくスポーツすべきなんだと思いますよ。もちろん、いいかげんにやるということじゃなくて、マッケンローみたいに楽しみながらまじめに取り組むということ。スポーツに精神修養を求めるべきじゃない。

スポーツと小説。

 スポーツ全般に対する考え方自体、日本人は暗いですよね。たとえば小説やノンフィクションでスポーツを取り上げるときも、どうも思い入れが多くて、ウェットになり過ぎることが多いと思うんですよ。

 スポーツ小説にしても、負けていくものの苦悩とかじゃなくて、その選手がもっているエネルギーを表すような小説にすべきでしょうね。

 スポーツ小説を定義づけるのはむずかしいけど、ゲームそのものを書く小説というのは日本にはあまりないと思うんだよね。どうしてもスポーツ選手自体に物語を求めるようになっちゃうでしょ。そういうのは一番スポーツから遠いと思うんです。もっともすばらしいものを小説つまり言葉にするのはむずかしいし、逆に、肉体性のかがやきは言葉にできないからすばらしいんだと思う。

 まあ、実際にスポーツしている人には、たとえどんなに美しい言葉だって追いつかない、といったところでしょうか。

スポーツの文化度。

 プロ、アマを問わず洗練されたアスリートというのはすばらしいし、とびぬけたものは、見て楽しいですよね。たとえば、古い話になるけどエチオピアのアベベ選手が走る姿は、見る者に崇高ささえ感じさせます。国を代表するその選手を見ることで、その国民が何を考えているのかがわかる、いわば共通の表現手段だといえます。

 ことばは人種を超えて、世界の人々を感動させるという意味で、スポーツはひとつの文化です。文化というのは、自分たちは他の国の人とは違う価値観をもっているのだということを相手にもわかる言葉で表すことなんですね。日本人は日本独自の、つまり特別の伝統文化を、特別の言葉で伝えようとするから、なかなか伝わらない。共通の言葉で表現するという認識がたりないと思うんです。それは、やらなければやらなくてもすむし、面倒くさいという理由もある。

 音楽や映画は、その意味で共通の言語ではあるけれども、それも世界に通用するレベルに達していてはじめて言えること。たとえば、ジブシーたちの音楽フラメンコはきびしい迫害の歴史の中で、文字どおり命をかけて踊り続け、工夫を重ねてきたから、世界中の人々を感動させる魅力をもつようになってきたのですね。

 日本には今までそういう緊迫感がなかったから、世界の人々に興奮を与える美しさをもったお祭りが少ない。お祭りを、ただ自分たちだけのせまい空間で楽しめればいいという時代はもう終わったのだと思う。

福岡発の”お祭り”として。

 福岡は、最近はちょっとごぶさたしていますが、いい街ですね。魚は新鮮でおいしいし…。住みやすいから、老けない。 こんど、福岡で開かれるユニバーシアード大会は、新しいお祭りとして考えたらどうだろう。福岡は昔からアジアをはじめ外国の人がたくさん訪れていたところだし、人なつこさのある街だから、大丈夫だと思いますよ。博多にやってきた海外の人たちに、いかにいい印象をもって帰ってもらうかということに全力をつくしてほしいと思います。

 いま、世界中が日本人は一体何を考えて経済競争を続けているのかわからず、日本への非難の声が高まっている。それは単に貿易摩擦とか輸出超過という問題ではなく、日本人そのものが理解されていないのです。スポーツ大会を開催することは、その国をわかってもらえるいいチャンスなのだから、日本でのユニバーシアード大会には大きな意義があると思うし、日本人が何を考えているかをわかってもらう最大のカギになるはずだと思います。そういう意味でも、私は福岡大会が日本の国際化時代のひとつの幕開けとなることを願っています。


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